実践!まちつくり講座

首都圏研究所のあゆみ

前史(昭41~45年)

  • 昭和41年、蝋山政道先生(行政法、東大名誉教授)の提唱で「首都圏総合計画協会」発足
  • 理事約80人で構成する任意団体。会員組織(自治体、法人、個人) 御成門に事務所を設置。ニューヨーク圏計画協会の東京版で、市民の視点から行政計画への提案をすることがねらい。
  • ※活動内容は、学際的な研究活動と行政マン、企業人を対象とした研修会等による啓蒙活動の2本柱。
  • 昭和44年大阪万博、21世紀の未来像コンペに参加(東大、京大、早大、首都圏グループ、その他計10チーム)し、「山岳都市」を提案。
  • 学者、行政マン、財界人のサロン的な活動の性格が強かったが、発足後しばらくしてから行政からの委託研究が発生、専属研究員の必要性がでてきた。

1. 始動期(昭46~48年)

  • 研究スタッフの拡充-濱田(昭46.6)、井上赫郎(昭47.4)入所
  • 活動内容-委託研究、研修会の開催
  • 目黒への事務所移転(昭48)
  • 初々しい問題意識による調査・研究活動の始動。
  • 総合計画づくりが中心(生活に密着した総合計画を)
  • ※自治体のより生活に近いレベルの問題に焦点を当てた研究活動を実践すべきではないかとの認識から組織の再編を模索。
  • 昭48.12、協会の解散を決定

2.初動期(昭49~55年)

  • 任意団体「首都圏総合計画研究所」設立(昭49.4)
  • 事務所を早稲田西川ビルに移転。
  • 残留スタッフ-濱田、山田、井上赫、山口
  • スタッフの拡充-井上隆、木名瀬(昭49)
  • 理事長-吉阪隆正、理事-川名吉衛門、佐藤笠、小沢辰男、江山正美、奥田道大
  • 発足の弁-研究所発足に際して、
  • 自由な立場から世の歩みへの提言(啓蒙運動の継承) 自治体の限定された問題を長期に多面的に検討 住民のバラバラな希望を出発点として、それを全体としての集団の中にどのような解決策として提言できるかを検討 下請的調査ないしは利益代弁者に陥りやすいことをいましめる。 (吉阪原稿の抜粋)
  • 発足記念講演会の開催(昭49.6.6 朝日講堂にて)
  • 都市のかたち-吉坂隆正
  • 地域の開発と保全-川名吉衛門
  • 地方財政問題によせて-小沢辰男
  • 「研究所月報」の発刊(昭49.6~昭51.3、合計21号)
  • 会員への情報発信、会員の意見交換の場
  • 「まちづくり講座」の開設(昭49、50)
  • 昭和49年度のまちづくり講座(延べ8日間)をもとに、都市住宅特集号「まちづくり入門その1学習編」(昭50.12)発行
  • 「まちつくり研究」の発刊(昭52.1~昭56.5、合計10号)
  • 月報から季刊誌への切換え
  • 「まちづくり」から「まちつくり」へ
  • 事務所移転(早稲田→柏木へ。昭52.春)
  • この頃、野球熱→UFO結成、バッティングゲージ設置。
  • スタッフ増加-工藤(昭52)、大戸(昭53)
  • 株式会社「首都圏総合計画研究所」発足(昭54.7)
  • 吉阪隆正理事長死去→川名理事長へのシフト(昭55.12)
  • この時期は、仕事の間口が広がり、太子堂などの参加のまちづくりの実践活動がスタートした。
    ex.・総合計画→地区総合計画へ/・防災/・生活道路計画/・集合住宅白書/・世田谷赤本づくり など

3. 展開期(昭56~平2年)

  • 任意団体と株式会社の併立
  • 新「まちつくり研究」発刊(昭56.9~平3.7、合計21号)
  • 事務所の主張を社会に提起するため、原則としてスタッフの執筆に切換え
  • 当初は順調に発刊。仕事とのやりくりが困難化し、しだいに息切れ状態となる。
  • 平2.4会員制度廃止→以降「まちつくり研究」は書店売りのみとなる。
  • 任意団体の廃止(平3.3)
  • スタッフ増加-木下(昭59)、広島(昭61)、湯浅(昭62)、佐藤(平1)
  • この時期は参加のまちづくりが本格化し、仕事の間口のさらなる拡大をみた。 ex.地区計画、狭隘道路、建築指導行政、コミュニティづくり、団地建替え、水上バスづくり、都市景観 etc